久しぶりに昔のことを思い出していた。黄色や幸せや太陽がいた頃の話だ。
あのころの私は幸せであり、それゆえ不幸であったのは間違いない。(同様に不幸であるゆえ幸せだったのだが、それを言い出したらきりがない)
そして急に不安になったのだ。間違っていたのは、果たして私だけだったのだろうか、と。
『私は の優しさに 甘えている気がする』
『一人くらいは そんな人がいても いいとおもう』
私が何かに気づくのは、それが手遅れになってからで、私は信じるべきだったのかもしれない。たとえそれで実害を被ろうとも、私自身が手遅れになろうとも、それでも、信じるべきなのだろう。
優しさや自己犠牲というものは、何のかかわりの無い人間にむけられるもので、それは、かかわりを持った時点で、何らかの利害関係が生じるからに違いないのだ。
『――――ありがとう』
絶対的なものなどない。
友人は選ぶべきだ、と言ったのはどの偉人だったか。
朱に交われば赤くなる、という偉人がいたということは、その言葉も、同様に重んじられるべき逆説なのだろう。
あの時のことを私は今でも覚えている。しかし私はそれを忘れた振りをしている。
それは彼女が持つ決定的な切り札で、私は彼女が、それをどこに仕舞ったのか、問ただしはしないのだ。
投げかけられる数多の言葉の、どれを信じるかを決めるのは自分自身だ。信じる力を奪われていようとも、疑う力を盗られていようとも、それでも、最期に決めるのは、自分自身しかいない。私は、自分の見たこと聞いたこと以外信じない。そうしなくてはいけない。
*
「 」
「なに、」
「これ」
「ああ、」
「ありがとう!」
私はその時の笑顔を覚えていた。
私の机に向かってくる彼女の、躊躇いがちで、でも堂々とした足取りや、顔の動かし方、口角の上げ方、細められた目、差し出された手――
どれをとっても親密などと言う言葉は似合わず、しかしそれでも疎、ということではなく、手を伸ばした90センチ先にいるような、後ろ向きにギャロップをするような、不安定さ(若しくはすれ違いざまに視線があうような、ぶつかりかけたベクトル)
そんなかつての感覚が、今でも私を動かしている。今や、それは過去のことだというのに。
それはチョコレートの匂いが充満する、一年前の冬のことだった。