妙に視線が絡む。
自意識過剰ではない。私は彼女に対する関心を失っていた。残念なくらいに。
(どうせまたあのときのように)
今度は悲観的ではなく投げやりに構えていた。あの時から、気づかないということを恐怖するようになっている。にこにこと笑う笑顔の裏で、情報が錯綜していた――一人知らないでいるということが、痛々しい。それが、腹立たしい。
奉仕掃除の当番を決めるとかで、彼女は黒板の前に立っていた。中途半端に孤高で、中途半端に真面目な彼女のやり方は、この立方体の中でどのように思われているのだろう。(そんなことを気にしているのはこの中で確実に私だけなのだけれど) 私は一昨日ジョーカーにした話を思い出していた。
「全体が個人の集まりだと、忘れているんだ」
個人ばかりに気を取られ、ままならない人間よりは全く良い。むしろ彼女の感情に訴えないやり方を、私は気に入っていた。かつての私が、私のやり方を正義としたように。しかし、いくらモラルとして正しいことをしようとも、人がついてくるかどうかとはまた別問題なのだ。
二年間、立方体での彼女を見ていると、かつて彼女が部活で、どのような存在だったのか、ぼんやりとした輪郭が浮かんでくる。
貝のいなくなった教室は、少し散漫とした。彼女は、教壇には乗らないで、教卓の横に立っていた。
ジョーカーが言ったように、彼女は纏める立場でありながら、他のそのような人間たちと微妙に違う。彼女自身が、指導者という立ち位置に縛られている気さえしたし、同時に自ら縛っているようにも見えた。
それは不本意なことではなくて、ただ義務を遂行しようとしているというのが的確だ。だとしたら彼女に東のような親切さと要領の良さは望めない。
その点は、彼女を好きな自分に縛られてしまった私とは違う。彼女の回りの人間は、「指導者である彼女」という言葉を信じている。
かつて部活で何があったのか、私はしらない。気がつけば、太陽に聞く時期を外してしまっていたのだ。
ただ、Sは言った――「 の言ったとおりだった」。私はその意味を知らない。ただ半年前の、彼女と部活を取り巻く空気の悪さだけを、知っていた。
おそらくそれは事実だったのだ。今、彼女は全く別のかかわりを持っている。きっと彼女は決定的に、あちらとこちらの境界を越えていないのだ。悲しいことに、彼女はこちらの人間だった。それも私が嫌悪しているタイプの。
収束がつかないような教室で、私は挙手をした。彼女は私に礼を述べた。
(これが私の欲しかったのものに違いない)
他人行儀な社交辞令。今絡んだ視線には、何の意味もこめられていなかった。