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それでも君を*****。

(愛か恋かも分からないけれど)

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7月26日 鏡


それでもワタヌキは表情を変えなかった。歯をくいしばって、眉を寄せて、何かに耐えるようにじっと一点を見ていた。
何か一言言ってやりたい。私はあの涼しい顔を思い浮かべた。それはワタヌキのためである以上に、自分のためでもあった。

なんでやつなんだろう。なんでわざわざやつを選んだんだろう。いや、私は本当は、その理由を知っている。


「そうか」
ワタヌキは急に力を抜いて、どこか空を見た。
「どうせ――おまえは知っているんだろ」

ばしゃり、と冷水を浴びせられたような気がした。
なにを、と私は衝撃でまわらない頭を必死で回転させる。ワタヌキが感情をストレートに言葉に出したのは、初めてだった。


「知っているんだろ。全部聞いているんだろ。それで二人して私を――笑っているんだろ」


ワタヌキに、私の言葉は届くのだろうか。果たして、本当のことを話したとして、それをワタヌキは信じるのか。当然の疑心暗鬼で固められたワタヌキは、自分で出した答え以外の事実を受け入れるのか。

「それはないよワタヌキ。私はワタヌキが思っているほど、仲良くない」
私は私のことを話すけれど、話されたことはないんだ。二人とも、ワタヌキを笑ったことなんてないんだ。それは本当だよ、ワタヌキ。信じて、ワタヌキ。いや、でも今のワタヌキは信じない。だとしたら、私の言葉はなんの意味も持たない。言葉の無力さが身にしみて、私は泣きそうになる。

怒鳴られることに、耐性はあるのに、罵られても、泣きはしないのに、淡々としたワタヌキの言葉は心を抉った。それはきっとワタヌキが鏡で、私を、私の目下にさらけ出してしてしまったからだ。


「……すまん。最近疲れていてね」


ごめん、と謝ってワタヌキは背をむけた。その背中はとても小さく見えた。
引き止めたい衝動に駆られたが、私は一歩も動くことが出来なかった。

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8月13日 猫の舌と抽象論③

「かまをかけたんだ」
「かま?」
「誕生日にね、『大好きです』ってメールした。分かっててメールした。その返信がね……うん、やっぱり、かかったなあって」
「……」

不思議と心は冴えていた。怒りもわかなければ、悲しみもなかった。

「しってる。私はね、誕生日のお祝いをするために、その時辛さと一緒にいたんだ」

今でも覚えている。

「丁度お昼ご飯を食べているときで、辛さは凄く喜んでいたよ」

奈良からメールが来た、それだけで、ポーカー・フェイスである辛さの口角が微かに揺れた。
スクロール、スクロール。私は、料理と辛さを4:6で見守る。スクロール。そして辛さは液晶から目を離さずに言った。


「……それで、むしろ私がテンション上がっちゃってさ。料理とか、全部奢る勢いで……ね、いたんだよ!」


わざとらしく面白い声を出したが、奈良は黙っていた。しん、と沈黙がのしかかって、それを誤魔化すようにばたばたと足を動かすと、余計に夜がクリアに部屋を包む。ああ、  。奈良と彼女が一瞬重なって、コップが揺れて水が零れた。ぱしゃり。ああ、折角忘れていたのに。 彼女、ワタヌキ、雀、飛鳥、幸せ、黄色、ドラム、心臓、星。
慎重にコップを元の位置に戻して、慎重に水滴を拭いとる。慎重に慎重に言葉を発する。そうでなければいいと願いながら。

「……面白がっていたの?」

脳裏には沢山の人間が焼き付いていて、フラッシュカードのように今も点滅していた。円周率、狐、雀、飛鳥、幸せ、黄色、アート、そして、辛さ。

「……目的を達成したときの、達成感はあるけれど、そういうことでは、ないよ」
「うん、そうか。ならいいんだ、ならいいんだ……」

達成感と面白がりの違いも、善意と悪意の違いも、他人行儀と他人の違いもわからなくて、私はただ奈良を、悩み多き人間だ、と思うことにした。それ以外の形容はできなかった。「彼女もかまをかけたよ、奈良だけじゃない、奈良だけじゃないんだ――」 。それは全く褒められたことではないが、奈良を責める気にはなれなかった。
今はただ、奈良が面白がっていなかったことに安堵するばかりで、それ以外のことは至極些細なことに感じられる。


「わかっちゃうんだよ。私。もう、『特技は人間観察』って言ったほうがいいや」
「知っていたの、その、辛さが、?」
「なんとなく思っていたけれど、確信はなかった。メールではっきりしたんだよ……」




スクロール。長いこと画面を眺めた後、画面から目を離さずに、深く溜め息を吐いて辛さは言ったのだ。

「長かった」

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嘘吐きと偽善者の茶番劇 0

髪が床に散った。

「てめぇに、何が、わかるって、ん、だ!」
興奮状態が過ぎて、息も絶え絶えで、私は震える左手で首を絞めていた。う、と微かに声を漏らしただけで、叫び声を上げようともしなかったその口に無理矢理右手を突っ込んで、舌を乱暴に掴む。くそう、くそう。涙が壊れた蛇口みたいに溢れてきて、それは重力に従って頬に落ちた。微かに開かれた目には酷い顔の誰かが映っている。誰かが呻いている。誰かが誰かの首を絞めている。否、それは私だ。それでも抵抗をしない身体に、体重をかけた。苦しそうに歪めた口が何かを訴えるように微かに動いて、私は急に冷静になって身体を弛緩させていた。教室、床、机、椅子。存在を失っていた物たちが、炙り絵のようにじわじわと主張をし始めている。私の体の下で、微かに息をする音が聞こえる。
「…………る」
私の声に反応して、瞑られていた目が私の方に向けられた。
「ころせるんだよ、簡単に」
「……」
「軽々しく、しぬ、なんて、言ってんじゃねえよ」
思いの外低い声が出て、自分でもぞっとした。
「ころせないくせに」
掠れた声が私の耳に突き刺さる。
「ころすきなんて、ないでしょ」
私は大きく見開かれた目を見た。
「34。片手じゃ人はころせないって知っているくせに」
その瞬間、今度こそ、私の中でたがが外れた。本当に壊れたときは、案外冷静になるらしい。
「望み通り、※※※※※※※※」
そして慈しむように頬に手を添え、大きく開けた口が、歯が、首に触る――


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嘘吐きと偽善者の茶番劇 1

「また事件だあ?」
すっとんきょうな声を出した野次馬に向かって、正義漢は、しいっ、と人差し指を口にあてた。
「大きな声を出すな。内密な話なんだから」
教室は休み時間の喧騒で、級友たちはあたり構わずわあわあと喚き散らしている。この状況ならひそひそと話す方が怪しまれる気もするが、と野次馬は思ったが、ここは話題を持ち合わせている正義漢の意見を尊重することにした。
「別にびくつくことはないよ。盗難なんて珍しいことじゃないだろう?明るみになっていないだけで」
出来るだけ声を小さくして言う。
「そう、珍しいことじゃない。だから今までのことも一々取り沙汰されなかったんだ。でも今回は違うらしいぜ。みてな。間もなく教師が集合をかけるから」
正義漢の言葉通り、教師達がぞろぞろ現れて全員校庭に集まるように、と指示を出した。教室の喧騒が異常事態を察知して静まりかえった後、爆発した。
正義漢は眉を少しひそめた後、「来い」と野次馬の腕を取って走り出した。校庭ではなく、屋上に向かって。
「どこに行くんだよ!」
「君に意見を貰いたいんだ」

二人の背中は喧騒から遠ざかっていく。そして、終わりの始まりが始まろうとしてる。

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7月25日 半面鏡、詩は月の中宮

「…………あの、さっきはノート、ありがとう」
「いえ」

ごうんごうん、エレベーターの起動音がしている。沈黙。息苦しそうに不安そうに鞄を持ち変える腕。沈黙。手元に落としたままの視線。固定。話さない。「話せない」。私は何も言わない。ごうんごうん、私は知っている。追いかけてきたのを知っている。ごうんごうん、でもなにもしない。だからなにもしない。思わせ振りなことなどしない。知らないふりもしない。それがただの好意だと知っていても、私なにもしない。私には他人の好意を受け入れる権利など――ない。




『かっこよかったよお疲れ様!』





嗚呼、私が恐れているのは、本当に彼女なのだろうか。

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1月29日 それで救われるわけがないと分かっ ていた

嗚呼、何処かへ行きたい。遠いところに。私を知る人がいない場所に。貯金を全部財布に入れて、何もかも置いて、一番高い切符が行く街まで、電車に揺られて、がたごとがたごと。そしていつまでも戻ってこないのだ。そうだ、逃げ出したい。やり直したい。いろいろなことを、白紙からもう一度。


「どの電車?」
「あそこの、」
「送っていくよ」


嗚呼、このまま何処かへ行ってしまいたい。君を連れて何処かに行ってしまいたい。何もかも捨てて、全てを無かったことにできる場所まで。君だけを連れて、世界の果てまで行ってしまいたい。君だけがいれば良い。君だけが、私を認めてくれたら良い。それ以外に何も要らない、要らない、要らない、だから――――



「ばいばい」



(それでも私はなにもしない。何も出来ない。中途半端な辛さだから、捨てることなど出来ないんだ。)

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8月26日 8月のバレンタイン・デイ①

「――それからは辛いことがあるたびに、手を包んだ軍手の感触を思い出していたというわけです」
シミ先生の話は、「皆さんも、『これを思い出せば耐えられる』という思い出を作った方が良いですよ」という言葉で締め括られた。

今日はシミ先生の誕生日だった。毎年祝って貰えないという話を各地でしたら、郊外の校舎の生徒が高級ブランドの品と寄せ書きをくれたとか、一方此所の校舎はバナナ一本だったとか、そんな話を面白おかしく、ただし淡々と話していた。シミ先生はヤマ先生と似ている。

シミ先生は、べらぼうに頭が良い。冷たい。声が高い。未婚。三十路一歩手前。だが残念なことに、女子高生が好きな変態だ。(最もそれは、本人がそう言ったわけでは無いけれど)
唇と頬に色を入れて、爪の先まで気を遣っているようなそんな子が好きらしい。

演習時間ふとシミ先生を見ると、もくもくチョコレートを食べていた。この教室の教卓の上に、リボンをかけられ、ぽつねんと乗っていたものだ。「なんですかこれは。『ご縁がありますように』?これは未婚の私に対する嫌味でしょうかね」。
授業中だろうが何だろうがお構い無しで、それで怒られはしないのだろうかと思ったが、そうだ、シミ先生自身が言っていたように、シミ先生は偉いのだから、きっとそんな心配は無用なのだろう。食べる姿がなんだか栗鼠みたいで案外この人は幼いのかもしれないと思った。
「二条さんですか?…………奈良さん……ではないですよね」

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2月13日 バレンタイン・クライシス

「まあみててよ!」
私は二人の友人の前で、空っぽの箱を逆さにし、机に軽く叩きつけた。箱を持ち上げると、
「……50円」
の形を模したチョコレートが机の上に鎮座している。底蓋の下に隠されていたわけだ。
「君のそーゆーとこ好きだよ!」
「ありがとう」
私は箱に向かってにっこり笑った。彼女は、なんと言うだろう。ジョークは通じなさそうだが、少なくとも礼は述べるだろう。楽しかった。それは、彼女への贈り物を作ることがか、創作することかが――おそらくどちらもだ。私は終始口角をあげながら、明日になるのを待っていた。


しかしその時はすでに状況が動いていたわけで、今ではその白々しさにぞっとするばかりだ。
(しかし知らない方が幸せなこともあるのだ、と私は学習する。)

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8月26日 8月のバレンタイン・デイ②

私は自分を奮い立たせる思い出を持っていないし、また、持つ必要などないと考えている。しかし持っていたことはあった。そしてその偉大さを知っていた。
だから、過去に思い出を持っていない時よりも幸せだと思った。自分の矮小さを知っているぶん、幸せだと思った。
思い出のぶれと同時にぶれて、何かに掴まっていなくては四肢を地面に貼り付けてしまうような、そんな自分がいることを、今の私は知っていた。


それから私は、何かがあるたびに想像することにしている。好きだった級友に手を握られ圧倒されるシミ先生と、柔らかい軍手の感触。それから、チョコレートの包みをあける音。5円を模したそれを、口に入れる様子――。





シミ先生は爪の先まで気を遣っている子が好きだ。
スカートの丈さえ少数派を保つ私は、シミ先生の目にどのように映っているのだろう。

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9月5日 青い鳥①

私はね、今までに三度決定的な失敗した。一度目は中一の時。リレーでね、バトンを落とした。バトンゾーンで、次の走者にうまく受け渡らなかったんだ。二度目は中三の時。やっぱりバトンゾーンでうまく渡らなかった。落としはしなかったけれど、その時まで一位で来たのが、二位になってしまってね。しかも悪いことに次の人はアンカーだった。結局抜かすことは出来なかったよ。三度目は高二の時。障害物競争だった。一つ上の学年と競っていた。必死で網をくぐって、なんとか差を四十センチまで縮めたんだけど、焦って跳び箱から転倒さ。情けなくって仕方がなかったよ。



無様な姿を晒した高二、それでも彼女は言ったんだ。「かっこよかったよお疲れ様!」。いや、言ったんじゃないな。私が疲れて家で夕食を食べているとき、携帯のランプが赤く光ったんだ。つまり、彼女からメールがきたんだよ。その時私は嬉しくて嬉しくて、冗談ではなく歓喜の声をあげながら廊下をスキップしたよ。――ああ、笑わないで。本当のことなんだ。


でもね、よく考えて御覧よ。その時は――その時も――私と彼女はそんな――労いの言葉をかけあうような――そんな関係じゃあなかった。話すことなど殆ど無かったんだ。おかしいだろ?それなのに彼女は私にメールをした。尤も、その時の私はそんなこと気にもかけていなかったけれど。


彼女はね、知っていたんだ。私は露骨だったし、まわりもからかっていた。あの時のような面白がりではなく、なんの善意も悪意もなくね。(いや勘違いかもしれない。でも少なくとも私はそう信じている)誰も、何も、言わなかった。それで、彼女は彼女の考えるようにメールした。ああそうだ、きっとそれが何にも影響をされず、何にも染まらない、彼女の唯一の行動だったんだって、今は思うよ。

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