[PR]
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
、大好き、と言うと、ありがとう、なんて機嫌良く言うものだから、彼女がどんな人間だったのか忘れてしまっていた。
ふと三年前のことを思い出した。
そのころ凝り固まった正義感の塊だった私は、クラスメートを「わらう」(それも不当で理屈の通らない理由で!)人間に対して不愉快な気持ちになるような人間で、彼女はそんな私の隣の席に座っていた。
長く傍にいれば話そうが話すまいが、性格はなんとなく分かるわけで、物事に対して否定的にあたる彼女に対し、私は私の信念に反する者、という意味においてのある種の恐怖感と嫌悪感を抱いていた。
ただ、彼女が否定的にあたるのは、授業だとか教師だとか、部活の後輩だとか、遠くにあるものだったし、仲の良くない私に対してとても親切だった(今の私はそれを他人行儀な優しさ、と定義している)ので、私は彼女に多少の好意を持っていた。そのとき、それを自覚していたわけではなかったけれど。
そして黒板に数字の並んだある日のある時間、彼女は二号を「わらった」。
ただ漠然と彼女は他人を「わらったり」「おもしろがったり」しないと思っていた私は、少なからずショックを受けた。それは逆説的に盲目な信頼を表していた、と今になって気づくのだけれど。
そのことに目を瞑って(もしくは妥協して)、それでも「仲の良くない私に接する彼女」を慕っていた一年前、私も彼女も、その対応を大きく変えることが無かったのだが、それももう仕舞かもしれない、とぼんやり思った。
じわじわと蝕まれて行った繫がりが、もう取り返しのつかないところまで来ているようで、私は校庭の真ん中で、よれたセーターを頭からかぶった。
味方がコートに走っていく。
私は星を見送った。