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それでも君を*****。

(愛か恋かも分からないけれど)

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10月20日 冷却する熱を持った手

なんでもできる気がして、私は東に手を伸ばしかけていた。

(頂戴、東)

私の真ん中を何かが掴んで、ぐい、と引きずり戻した。上がりかけた精神が、またマイナスに進行を始める。もう一歩も動けなくなっていた。
人はそれを理性と呼ぶのかもしれない。だが私は、私を掴んだそれは、ワタヌキの手だと思った。

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10月23日 一本の箸、二本の杖


「彼女は――彼女は、私がオアシスに頼んだから、おこっているの、?」



朝御飯のパンは焦げていて、一分走って忘れ物を思い出し、アスファルトの凹凸に邪魔をされ、二本電車を見逃してから、学校に着いたのは十分も遅かった。人のいるところには入りにくい。勿論遅刻ではないのだが、閑散とした教室が好きな私は些か沈んだ気持ちで扉を開ける。教室には一人、人がいた。(おかしいな。エースと筆が居る筈なのに)
珍しいことに、エースがいない。一番にいる筆もいない。二人きり。星しかいなかった。
席につき、突如として素早い回転をした思案を経て、しかしそれでも、至極単純で無意味な疑問を、私は発していたのだ。



「彼女は――彼女は、私がオアシスに頼んだから、おこっているの、?」

おこっているの?星は意外そうに靄のような声を出した。普段はっきりとものを言うが、あまり親交の無い人間に話す時だとか、困っている時、遠慮がある時、に、星はそんな声を出した、気がする。分からないけれど。おこっていないかもしれない。ちがうかもしれないわ。わからない。

どうして、どうして、と星は繰り返すが、その答えを持ち合わせていなかった私は、シンプルな疑問をまた投げ掛けるしかなかった。

「何か……聞いていない――?」
「いやなにも!」

星ははっきりと否定をする。そして、「おこっているのか、」と逆に納得をするのだ。(違うのか、私はまた間違えたのか、ああ、わたしは。それすら信じられないなんて)


「――そうは言っても、私のことは知っているでしょう?」
笑いながら言うと、少しはね、と星も笑う。靄は晴れている。


いつのまにか下を向いて考え事をしていたようで、なやんでいるの、と星が聞いた。そうでもない、と私は首を捻る。ふ、と、誰かと話している時には珍しく、微かな自己嫌悪感が浮かんできて、私はぐ、と目を閉じた。これは甘えだ。優しい人に、他人行儀に、私はどっぷり浸かっているのだ。
たまらなくなって、ごめん、と謝ると、星は謝罪の意味を取り違え、「本当に、何も聞いていないよ、」と心配そうに付け加える。


いい人だね、星は。いい人だね。私は心から言う。ありがとう、と星は言う。「わたし、星のも、ほしいなあ――、」。
つい、と視線を落としながら私は言った。舌の根も乾かぬうちに言った。

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10月26日 質疑応答

質問を最後まで黙って聞いた後、相手が言いきるのを待つように一呼吸置く。ぽつぽつと事実を述べながら、二度まばたきをする。目を閉じた時に重なる睫毛だとか、どこか遠くを見るような表情だとか、型にはまったそれら、四年前から変わらない形が視野の端に引っ掛かると、どうしようもなくぞくりとして、逃げ出したい気分にかられてしまった。用件を述べ終え背を向ける私にどうして、と言葉が投げ掛けられ、素敵だったから、と返事をしながら振り返った。
「ああ、ええと、見に行ったのよ」
「そうなの――どのへんが素敵だったの?」
壁に体を預ける彼女はまるで私と会話をしているようで、それでも、そこでも、状況を肯定的に受け入れた私は黙って去ることはできなかった。負の感情は全て霧散していて、ただ無感動に処理をしていた。うまく笑えていたのだろうか、私は。ただ、早くオアシスと桜のところに帰りたかった。

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10月26日 流星のダスト・シュート 1

またわらわれる。わらわれるわ。黄色は、大丈夫だよ。と言う。


「お、そろそろ帰りそうだ」
「――ああ、本当だ――じゃあ、私も帰ることにするよ」
軽く手を上げて背をむけると、がんばれよ、というように黄色は拳を作った。自分が何をしたいのかも分からなかったが、ただ、何かのためにのんびり歩く気にもなれず、いつものように、かつてヤマトが速すぎる、と言ったように、足を動かしていた。
「おかしい――おかしいよなあ」
彼女は変だ。先週から、何かが。


「どうしたんだろう。何のために残っているんだ?」
彼女は遅くまで残る人ではないよなあ、と、黄色は言った。不審だ。なんだ。またわらおうって言うのか。などと、相変わらず恐怖が勝り、嫌な想像がふつふつと浮かぶ。その正否がどうであれ、なにかをするわけでもしないわけでもないのだが。焦点を定めずにそちらのほうを眺めていると、星と目があった。
(星。あなたは、)
彼女は黒い鞄を手に持ち、談笑をしている。


湿った人混みにのらりくらりと乗っかっていると、すでに駅に着いていた。傘を閉じて雨水を払う。払った水滴が予想以上に飛び散ってしまい、眉を下げながら、僅かに後ろに視線を流すと、黒い鞄が見え、私の身体は凍りついた。


(『ねえ、いっしょに帰りましょう。帰るひとがいないのなら、私といっしょに帰りましょう。待っていた人においていかれたのなら、私といっしょに。』)

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10月26日 流星のダスト・シュート 2

「誰か待ってるの?」
「ううん、ちがうよ」
後ろ髪を引かれるように首を捻りながら私は言った。船頭はいつものように屈託なく笑う。旧友達に特有のあの笑い方だったが、そう感じさせないだけの説得力が船頭にはあった。
反対側のホームに目をやると、同じ制服が階段を降りていて、目を細めて私は言った。

「あれは、彼女じゃないかな」
「ああ、本当だ。おおい――流石に、気付かないな」
予想に反して船頭は大きな声を出さなかった。思慮深いし、良識があるのだ。心臓のお墨付きでもある。
彼女は当然だがこちらには目もくれず、死角に入り込んだ。勿論私は彼女がこちらに気付かないと確信していたし、彼女もこちらを見る気などなかったはずだった。

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10月23日 逃げる糸みみず

――だから、おかしいだろう。と、矛盾を指摘したところで何かを向上出来るわけではなかった。指摘したところで何かが変わるわけでも無かった。仮令何かが変わるのだとしても、私はそれを取り沙汰することはしまい。体力も気力も残っていない。それをぶつけることは出来ないだろうし、またしない。そして、誰が。誰が。そんなことをするものか! 見当違いも甚だしい。私にそんな権利があるものか。この私に。
悪いのは私だ。彼女は無実だ。ああ、でも、どうして。どうして。


「そう言ったということは、本当は分かっているんじゃないのか――」
それすら確信を持たないままで、私はむかしを思い出す。

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10月25日 そして私は、盲信している振り をする

「……の」
「え?」
「熊は知っているんだよね」
「ええ」
「直線も……?」
「知りませんけれど、ドラムが言っているんじゃないんでしょうか」
「……熊はきっと……」
「え?」
「……いやなんでもない。ごめん最近病んでいて」


辺りは暗かった。

こんなとき、たとえば彼女ならなんというのだろう。私は思う。おそらく何も言わない。一番美しい他人行儀な言葉で、一番波風の立たない一般論を言うのだろう。然しそれは海先生のような大人の対応とはまた異質だ。だからといって幼いわけでもなくて、むしろ海先生以上にシビアでクールなそれを、私は悪いとは思わない。それは時に人を迷わせるけれど。その代わり盲信しているわけでもないな、と、今はそう思えるようになった。


「私が言うのもなんですが、気にしない方が良いですよ」


私は心から言った。
熊もドラムも直線も、悪い人じゃあない。知ったからといって、誰も悪いようにはしないだろうに、何をそんなに恐れるのだ。

今回は倣ったわけではなかったが、それは奇しくも、彼女が私に言った言葉と同じものだった。



(彼女と同じなら、それはきっと間違いではないのだ)

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10月27日 貸借

ラベルに書かれた字を見ていると、なんとも言えない気持ちになった。
「これは、彼女の字なの?」
「そうだよ、多分――やっぱり、東に似ている」
幸せ、とは少し違った。ラベルが元からあったものか、それとも私に貸すために書いたものなのか分からなかったが、桃色の香りを吸った時の機微にも少し似ている気がした。
「なんだろうなあ、うまく言えないのだけれど――オアシス」
「なに」
「私はね、知っていたんだよ。彼女がこちらに来るって知っていたんだ」


最近おかしな彼女であるが、今日のそれには理由があった。正確に言えば、私に理由が看過できた。
自席に座る私に対して、話し掛けるには足りない心持ちの何かを――随分と長い間持っていたようで、それが緩やかに伝わった。彼女だから、若しくは私だから、気持ちを向けられることには敏感だった。
彼女が何をしたいのか私は知っていた。だから平たいそれを鞄から出すのを見たとき、直ぐに私のところに来るのだと分かって、私はべたりと机に伏せたのだ。


「ああ、それで。そういうことだったの」
「そうなんだよ」


「――ちゃん、これ」。私は眉を下げて、ありがとう、と受け取り、オアシスと桜にぱ、と見せた。「借りた!」。彼女は留まるか否かで一瞬、本当に一瞬、躊躇う素振りを見せた後、去った。私がそれ以上会話をするつもりがないと取ったのだろう。それは珍しく正解だった。

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10月28日 六分の五年の内視鏡

ぐらぐらする。体が熱い。熱い。
エレベーターに酔いそうになりながら、私は教室に戻る廊下を歩いていた。真っ直ぐに伸びる廊下。突き当たりにはキャラメルの箱くらいの大きさの、級友たちが密集している。
(こんなヴィジョン、前にもあった)
歩いても歩いても間に合わないような気がして、私は小走りになる。またぐらりと視界が歪む。歪んだ先に見たのは彼女の後ろ姿で、手を伸ばしても届かないのが分かっていたから、私は立ち止まった。人が、いる。人が、密集している。密集――いや、人、が――!
突然過去が、どうしようもない過去が、私の背中を襲ってきて、胃の内容物が押し出され喉を焼いたあの感覚がリアルに思い出されていた。やめてくれ。やめてくれ。それは、苦しい。苦しい。苦しすぎる――!
キン、カン、とベルが鳴る。私はリアルな嘔吐感を押さえながら、あの時と同じようにドアを開けた。あの時とは違って、振り返らなかった。


(嗚呼、どうしよう、厭なことを、おもいだしてしまった)

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10月29日 無意味の意味

ふ、と、視線が視界に包みこまれて、溶けた。言葉も摩擦もなにも存在しなくて、ただ、空間が何か形の無いものに充たされていた。

上の空の私を、意味があるというにはあまりにも漠然とした二つの眼で、彼女は見ていた。一方私はというと、日課のように、恐怖というにはあまりにも甘い右目で、彼女を見ていた。視界は暫く、形の無い何かでこの場を充たすかのように留まっていた。それは黄色と起こるそれよりも緊迫はしていなかったし、良心と起こるそれよりも笑顔を必要としなかった。ただ、その場にあった。


その行為はここ最近に限り珍しいことではなかった。取り沙汰すべきことでもなかった。だから動揺するでもなしに、美術館の絵画から視線を外すときのように、無感動に視線を廊下に流す。何かあるのだろうが、あちらが動かない限り私は動けまい。動くまい。それに用件は察しがついているのだ。


嗚呼、滑る。
何度も何度も。
それでも事実以上の何かを感じることが出来ずに、私は感受性、の意味をぼんやりと考えていた。


『大丈夫?昨日はどうしたの?』と、彼女はそう、まるで聖母であるかのように、言おうとしただけなのだ。おそらくは。

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