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敵は語気荒く私に接した。
怖いのだ、と彼女に言うと、「ああ、それはむかつくね」と機嫌好く笑った。とにかく、気持ちが悪いくらい機嫌が好かった。
船頭や星やエースも似たような目に合っているらしい。
エースは信念を持ってそれに立ち向かっているようで、私は純粋に感動した。(その中に明らかに東と思われる人間の話が出た。できれば彼女でなければ良いと願った)
『エースに教えてもらったと東が言うから、東に教えてと言った。でも教えてくれなかった!』
私の告げ口を聞いた彼女は、ひょうきんに東の元へ向かった。
おそらくそのときも、素振りを見せなかっただけで、エースは怒っていたのだ。そう、今日と同じように。
勝ちたいと強く願っている。しかしそれは敵の敗北を望むこととは全く違う。
シロツメクサの時から、恐らく予想通り知っていた。
星。彼女は対応に困っているし、心臓の考えることは今は分からない。
私は、運悪く、あるいは運良く、聞いてしまったのだ。
、大好き、と言うと、ありがとう、なんて機嫌良く言うものだから、彼女がどんな人間だったのか忘れてしまっていた。
ふと三年前のことを思い出した。
そのころ凝り固まった正義感の塊だった私は、クラスメートを「わらう」(それも不当で理屈の通らない理由で!)人間に対して不愉快な気持ちになるような人間で、彼女はそんな私の隣の席に座っていた。
長く傍にいれば話そうが話すまいが、性格はなんとなく分かるわけで、物事に対して否定的にあたる彼女に対し、私は私の信念に反する者、という意味においてのある種の恐怖感と嫌悪感を抱いていた。
ただ、彼女が否定的にあたるのは、授業だとか教師だとか、部活の後輩だとか、遠くにあるものだったし、仲の良くない私に対してとても親切だった(今の私はそれを他人行儀な優しさ、と定義している)ので、私は彼女に多少の好意を持っていた。そのとき、それを自覚していたわけではなかったけれど。
そして黒板に数字の並んだある日のある時間、彼女は二号を「わらった」。
ただ漠然と彼女は他人を「わらったり」「おもしろがったり」しないと思っていた私は、少なからずショックを受けた。それは逆説的に盲目な信頼を表していた、と今になって気づくのだけれど。
そのことに目を瞑って(もしくは妥協して)、それでも「仲の良くない私に接する彼女」を慕っていた一年前、私も彼女も、その対応を大きく変えることが無かったのだが、それももう仕舞かもしれない、とぼんやり思った。
じわじわと蝕まれて行った繫がりが、もう取り返しのつかないところまで来ているようで、私は校庭の真ん中で、よれたセーターを頭からかぶった。
味方がコートに走っていく。
私は星を見送った。
疚しい事があるから動揺するのだ、と言うと、心臓はいつもの笑顔で笑った。
「東は真っ白だね。彼女はわりと……」
「そう、アライグマのように黒い。怖い。怖いよ」
そういえば、最初にアライグマなどという表現を使ったのは誰だったろう、と、見当違いな感想を抱いた。
「涙目になっているよ」
「え」
比喩ではなく本当にそうであったようで、私は自分に驚いた。
ただ、あの時のように泣くほどのことではなく、わあわあ泣き叫びはしなかったので、安心した。
心臓は謝って、私は有難う、と感謝した。
(彼女は初めから、私と向き合う気など無かったのだ)
意見を聞きはしないのだろう。 (否、聞く。聞いたとて理解する気などない、ということだ)
それが酷い、ということではなく、共通認識が出来上がってしまうということで、共通認識があるから、簡単に何かに迎合することはできない。初めから結果はでているのだ。そう、円卓のときのように。
そんなものだ。
仕方が無い、と問題を投げるといつも思い浮かぶのは黄色の話で、私はそれを黒ととるか白ととるか、いつも迷っている。
(あの時もあの時もあの時も、笑顔で接したその後ろで)
「猫だとしたら、ずいぶんと生意気な猫だね」
「ああ、だからこそ猫なんじゃないのかな」
数年前の夏、近所の公園で猫と戯れていたことがある。
蝉が五月蝿く鳴く午前中、ある灰色の猫と長い間遊んでいた。その猫は随分と人なれしていて、なでると腹を見せて喉をならした。
「また来るからね」
その日の夕方、再び公園に赴いたが何処にも猫は見当たらない。何処かに行ってしまったのだろう、と諦めて帰ろうとすると、一人の老女が公園に入ってきた。と、同時に何処からともなくあの灰色の猫が飛び出してきて、老女の足にまとわりつき始める。
老女は、いつもこの公園の野良猫たちに餌をやっているらしい。
たった数時間で仲良くなったなどとは思わなかったが、空虚感に襲われたことは言うまでもない。
つまり、猫は生意気で非常に現金な動物だ、ということだ。